子育ては、たくさんの手仕事でできている。
洗ったり、拭いたり、撫でたり、畳んだり。家族を育むことは、じつはハンドクラフトな行為だ。その中でもお気に入りは沐浴の時間。ひとつも直線がない赤ちゃんの身体に、手を這わせて洗っていく気持ちよさがある。
水を使う仕事が増えたからなのか、人生で初めて手が荒れる経験をした。ピリピリと痛むが、同時に嬉しさのようなものが込み上げてくる。子育てに参加できている事実を、指先に感じられたからだろうか。いや、もっと手の奥深いところから湧きあがる感情のように思えた。
2年前に移住した外房には、手仕事を生業にしている方がたくさん暮らしている。
農家、酪農家、パン職人、陶芸家、百姓的な生き方を実践されている方など。彼・彼女らの中には、手仕事でつくる行為によって「物事の本質」が見えてくるというような話をする人がいる。
パン職人はパンをつくることで、発酵の世界を
陶芸家は陶器をつくることで、土の世界を
スプーン作家は匙をつくることで、木の世界を探究していく
こどもが手で何でも触ってみることで、一つひとつ世界を理解していくように。大人が手で何かをクラフトすることは、物質世界を探求し理解していく方法でもあるのだ。
ではぼくは、コピーを書く仕事で、何をクラフトし、何の本質を探究しているのだろう?と考えたことがあった。ことばをつくることで、意味や概念をつくってはいる。それもひとつのものづくりだとは思う。けれど身体性を伴ったクラフトではないため、外房でさまざまな手仕事をしている人たちがいつも輝いて見えた。息子が今のぼくの働く姿を見たら「いつもパソコンをしているお父さん」と思うにちがいない。
「イテテテ」。ピリピリと手が荒れた痛みに、嬉しさを見出したのは、知らぬ間に風船みたいに腫れ上がっていた手仕事へのコンプレックスに穴があいて、じぶんなりのクラフト世界の入り口が見えたからだった。
そうかぼくは、ことばをつくることで、家族というコミュニティをクラフトしたいのだ。だれに頼まれたわけでもないこの育休エッセイを書きつづけられているのも、家族を耕すような、土から生まれるようなことばをこの手で育ててみたいからではないか。
手仕事や生産者に憧れを抱く人は、都市で働くビジネスパーソンにも少なくないはずだ。
そういう人こそ、こどもという自然にふり回されながら、全身で感じながら、手を動かし家族を育んでいくことは、身体性や人間性を取り戻す“ケア”としての側面もあると思う。頭でっかちではにっちもさっちも行かず、ヘロヘロに疲れ果てることもある重労働なのに、なぜか大人のほうが癒されているときがあるのだ。
そんな話を3人で散歩しながら妻に話していると、偶然ふたりの手があたり手を繋いだ。数ヶ月ぶりだった。妻は「わたしの手、カサカサで嫌だなあ」と言うが、ぼくは家族をクラフトしているうつくしい手だと感じた。
©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
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