即興のモノボケバトルは、とつぜん幕が上がる。
息子が、ミニカーを手渡してくる。
ぼくは空中を旋回させ、ブーと音を轟かせて走らせる。ウへへと笑う息子にミニカーを返す。
息子が、間髪をいれずミニカーを手渡してくる。
ぼくはじぶんの腕の上をオフロードに見立て、ガタガタと車体を振るわせて走らせる。ウヘウへヘヘと笑う息子にミニカーを返す。
息子が、勢いよくミニカーを手渡してくる。
ぼくは息子の足から胸に向けて、くすぐらせるようにクネクネと服の上を蛇行させる。ウヘウヘヘへエヘと大笑いする息子にミニカーを返す。
息子が、後ずさりするぼくを追いかけてミニカーを手渡してくる。
アイデアが尽きたぼくは、前と同じように空中をブーと旋回させる。へヘと小さく笑い、前より薄い反応をした息子にミニカーを返す。
息子が、屈託のない目でミニカーを手渡してくる。
追い込まれたぼくは苦し紛れに、全身を揺らしながら壁にドンドンドドンと叩きつける。息子はウヘウヘヘへへへヘと腹から笑いこける。
その遊びの後から、息子はミニカーを色々なところにぶつけて、音を出して遊ぶようになった。バケツに、窓ガラスに、ぼくの身体に。木の棒ではうまく叩けなかった鉄琴も、ミニカーをぶつけてドレミファと音を鳴らしている。
とくに目的もルールもない遊びの中で、それまではできなかった動作や、頭一つ抜け出たような行為をすることがある。筋書きのない即興パフォーマンスを通して、人が変化していくプロセスは目を見張るものがある。
無目的な遊びこそ、本気でやる意味がありそうだ。そう思ってからは、息子の遊びに付き合うという意識でなく、ぼく自身も本気で遊びお互いちがう自分に変身していくのを楽しむことにした。
日が暮れてからは、追いかけバトルが開幕する。
息子は突然、椅子の足の背後に隠れて「追うなよ、ぜったい追うなよ」と語るようなニヤリとした目を向けてくる。ぼくが四つん這いになり追いかける素ぶりを見せると、必死になって逃げる。ぼくが動きを止め隙を見せると攻守逆転。つぎは息子が、高速ズリバイで追いかけてくる。
食うか食われるかの攻防を繰り広げ、いつの間にか息子の頭は汗でびっしょりに、ぼくの膝は悲鳴をあげている。息子が本気なので、ぼくも本気になる。ライオンになったつもりで四肢を動かしグオーッと吠えてみたり、カバになったりつもりで口を大きく開け威嚇してみたり、即興でパフォーマンスをする。
そうすると息子も、しなやかな女豹のようなポーズをとることや、ウーッと遠吠えするように発声することがある。これが発達なのかは定かではないが、 お互いに新しい何者かに変身していくのは単純に楽しい。
即興パフォーマンスの面白さに魅了され、目的もなくウクレレを始めた。赴くままにポロンポロンと弾く。曲にもなっていない拙い演奏だが、音に吸い寄せられるように息子がやってきて、題名も楽譜もないミニライブがはじまる。
どうせならもっと自由に弾けるようになりたい、と買ってみた初心者向け教本の中には『Happy Birthday to You』の楽譜が入っており、1歳の誕生日までにマスターしようという小さな目標が生まれた。またコードをリズムよく弾く練習をしていると、ふと「どんな文体のリズムが気持ちいいのかな」と、書く仕事に結びつけて考えていることもある。
大人はどんなことだって、結果的に人生に意味づけ、学びにつなげてしまう生き物らしい。そうであるならば、もっと無目的に、一切の損得勘定なく、だれに頼まれたわけでもないことを本気で遊ぼうでないか。
何かを達成するための学びや努力も、生きるには必要だ。けれど、好奇心のままに自由にかけ巡るようなあらゆる目的意識から解放された遊びの中で、何の筋書きもなく即興的に変身していく過程にも、生きる根源的な楽しさがある気がしてしまう。
少なくとも、無尽蔵なエネルギーを持つこどもとの遊びは、発達のためだとか親の義務感では太刀打ちできないので、そう思うことにした。
今日も自宅ではいつとはなく即興劇が始まり、野生動物に扮した声と、拙いウクレレの音と、ぼくの膝の悲鳴が鳴る。
©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
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