少しずつ暖かくなってきたので、外出する機会を増やしている。庭を散策したり、近くの海を歩いたり、家の中では味わえない体験へと連れだす。
都内に住む人からは、「田舎は子育てにいいですよね」とよく言われる。ただ実際はそんな単純な話でもない。毒蛇やイノシシはいるし、ムカデが家に入ってくることもある。どこかにいくのには車が必要なことも多く、こども一人で行動できる範囲が狭くなることもある。
「子育てには、都会がよいか、地方がよいか?」
そもそもその問いを考えることに、どれだけ意味があるのか。どちらに住んでいても、幸せに生きているこどもはたくさんいる。問いそのものを、翻訳しなおす必要があるのだと思う。
「この世界をどう知っていきたいのか?」
いろいろと思索して、じぶん自身にはこう問いかけるようにした。この問いなら考えて行動してみたくなるし、行動する中で、また新たな問いとも出会えそうだ。きっと、いい問いとは、何かの答えを導くものではなく、さらにワクワクする新たな問いに導いてくれるもののこと。
養老孟司さんと宮崎駿さんがある対談のなかで、こどもたちが書く作文には人間関係のことばかりが書かれるようになっており、ゾッとしたと語っている。昭和までは、虫や植物など人間以外のテーマで書かれた作文も多かったらしい。
もしかすると令和のこどもたちの作文には、オンラインゲーム上でのやりとりやAIとの対話などがテーマとなり、人間も含めたリアルな生物のはなしは何ひとつ登場しないかもしれない。
「この世界をどう知っていきたいのか?」
息子のそばで、いっしょに生きられる短い期間。まずは大きな世界の方から、人間がマイノリティだと思える世界の方から散策したいとぼくは思う。わかっているだけでも地球上には175万種以上の生物がおり、人間はその中のひとつの存在。
こわいものは、こわい
いたいものは、いたい
うつくしいものは、うつくしい
大地に足をつけて、あらゆる生物たちの世界に、おじゃまさせてもらって。
人間の世界の外側にも、世界が広がっていること。人間には知覚できない世界も広がっていること。もしいつか人間の世界に疲れることがあったとしても、この世界には居場所があること。道草を食いながら世界を知っていく中で、息子が、じぶん自身で探索したい思える世界が見つかるといいな。
そんなことを思いながら、息子と庭にでて、目的もなく歩く。
ポップコーンみたいな白い花をつけた梅木の前に立ってみたり、鳴きはじめたばかりのぎこちないウグイスの声を聞かせてみたり、思いつくかぎり刺激を与えてみる。目を丸くして興味を示すのではないかと想像していたが、これといった反応はない。息子にとっては、室内と外は大したちがいではないみたいだ。
ただ太陽の光は眩しいらしく、外にでるといつも目を細める。けれど目を細めながらも、彼は世界を見ている。なにが美しいのか、心を動かされるのかなんて、だれかに導かれるものではない。じぶんで決めるもの、深めていくもの。
外にも世界は広がっている。その片隅を照らすことくらいしか、ぼくら親にはできないけれど、それで十分なのだと思う。
©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
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