最近の日課のひとつは、妻からNICU(新生児集中治療室)での話を聞くこと。
ぼくは面会ができないので、スマホで動画を見せてもらいながら、その日の様子を教えてもらう。
NICUの話は、なにかと興味深いものが多い。
ぼくらの息子は4002gと大きく生まれ、現在NICUに入院している赤ちゃんの中でいちばん大きい。息子の隣にいる赤ちゃんは小さく生まれ、体重がおおよそ10倍ちがうとのこと。大人にたとえるなら、ぼくが73kgなので、730kgの人が横に寝ていることになる。
耳を澄ませると、赤ちゃんの泣き声も、驚くほど一人ひとりちがう。イメージする泣き声よりも2オクターブくらい甲高く泣く子もいれば、アフリカの民族楽器ブブゼラくらい低く泣く子もいる。
「みんなそれぞれ自分だけの物語の始まりがあるねぇ」
NICU内での話を聞いて、妻の母が、妻に送ってくれたメッセージだ。
まさにその通りだと感銘を受け、同時にホッと安堵したじぶんがいる。こどもは生まれる前から、存分な個性を持ってこの世にやってくる。指の仕草も、なにげない表情も、興味を持つことも、何もかもちがう。一人ひとりを見比べるのが無意味なほどに。
生まれた当初は、健康な赤ちゃんと比べてしまい、息子には大変な経験をさせてしまい申し訳なく感じたこともあった。でも、この子だけの物語の始まりでもあるのだ。毎日、強く生きる姿をみて、この始まりを大切にしたいと思うようになった。
もし全員がよ〜いドンでまっ白なキャンバスで生まれてきて、周りの環境や教育しだいで何色にも染まれるのであれば、親の荷が重すぎる。そうではなく、もともと持って生まれた個性を広げるきっかけをつくることなら、じぶんにも介在でき、いっしょにワクワクできそうな気がしてくる。
NICUでは、赤ちゃんたちの世界のほかに、もうひとつ興味深いものがある。それは医療関係者の姿勢やことば。中でも印象的なのは、妻がNICUから退室するさい、いつも看護師さんがかけてくれる一言。
「(赤ちゃんを)お預かりしますね」
ぼくはこの場面で、これ以上に適当なことばを思いつかない。
こどもを一人残して去らなければならない母の心情に、そっと寄りそうことばだ。NICUでは「赤ちゃん」という一つのことばではくくれない、一人ひとりちがう主語をもつ新生児と日々接しており、相手の視点で想像する力が磨かれているのだろう。
ふとダイバーシティとは、組織の中に多様な属性の人を集めることではなく、じぶんの中に主語を増やすことではないかと思い返す。コピーライティングとも似ている。じぶんのなかに、他者を存在させ、書くというよりは、発見し書かせてもらっている感覚。だから性別も年齢もちがう人に向けたコピーを書くことができる。
どんなに観察力が優れていても、人はじぶんが見たい世界しか見ることができない。どうしても過去の経験に引きずられてしまう。
画家のゴッホは「目の色を変えて、対象を観る」ということばで表現した。目の色を変え、耳の形を変え、肌の色を変えることでしか見えない、世界の美しさがあるのだ。今のじぶんが見られる世界の外にも、じぶん自身の個性や、大切な人たちの魅力は広がっている。
こんなことを書いている間も、ぼくは一つひとつ親になっていき、じぶんがこどもだったことや息子だったときの主語も薄れていってしまう。先生には反抗するし、大学も中退する。既存の教育のレールに乗れなかったじぶんが、親になったとたん「いい学校」なんて検索してしまう。
そもそも「こども」といっても、息子もずっと変わり続ける。1日1日変わる息子を観察して、いろんな主語をぼくの中に入れておきたい。けして立派な親ではないけれど、キミの個性や可能性をいろんな角度から面白がりながら、ともに見つけていける、一人の人間でありたいと思う。
©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
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