こどもの痛みにどう向き合うか / 育休32-33週目

こどもの痛みにどう向き合うか 育休32ー33週目

 男性にこそ立ち会ってもらいたい場面がある。
それはこどもの予防注射。0歳は、ヒブ、小児用肺炎球菌、B型肝炎、4種混合などまさに注射のオンパレード。毎月のように小児科のお世話になる。

 すべて立ち会っているのだが、生後2ヶ月で受けた最初の予防注射がもっとも衝撃を受けた。1日に4本も注射を打つ日で、冒険の初日にラスボスが登場するみたいな修羅場。今でも鮮明な映像としてそのシーンを再生できる。

 病室で医師と向かい合い、息子をじぶんの膝の上に乗せ、両太ももに注射を打っていく。1本目を打ったときは、息子は何が起きたかわからない様子。キョトンとした顔をしていたが、数秒ほど経つと痛みに気づき、堰を切ったように泣く。2本目を打つと、その泣き声は倍々に大きくなっていく。

 3本目は、もう片方の太ももに打つ。「痛っ」。針が息子の肌を刺した瞬間、なぜかじぶんの痛覚でも痛みを感じる。親子の混乱が絶頂に達しそうな状況で、ダメ押しの4本目。接種後は、抱っこしてもしばらく泣き止まず、帰りの車中でもぐったりとふてくされた顔をした。バックミラーに映ったじぶんも、そっくりな表情になっていた。 

 男性は、つわりの辛さも、出産の痛みも感じることはできない。
分娩にも立ち会ったが、痛みを感じる隙間もないくらい壮絶で、ただただ妻子の無事を祈ることしかできなかった。けれど、こどもの予防注射は、じぶんの痛みとして感じた。こどもがじぶんの身体の一部のように、じぶんの輪郭が変容してしまったことを知った。

 そんな予防注射も、回数を重ねるたびに少しずつ慣れてくる。
「子にとってネガティブなことは、共感ではなく理解にとどめるとよい」。息子が全身チューブだらけでNICUに入院していた期間に、医師からもらったアドバイスも役に立った。「痛いの怖いねえ」と共感するのではなく、「痛いのはわかるよ。けれど、もっと痛いことが起きないように大切なものなんだよ」と理解にとどめる。

 その成果もあったのか、こどもの痛みについて、じぶんの痛みとして感じる感覚は薄れていった。息子もだんだんと強くなったようだ。生後6〜7ヶ月で接種したBCGと日本脳炎のワクチンは、まったく泣きもせず、へっちゃらな顔をしていた。医師から「強いねえ」と驚かれるくらいだった。なんだか褒められた気分になり、息子に「すごいねえ」と声をかけて、一緒に喜んだ。

 ふと思う。こども自身は、痛みにどう向き合えばいいのだろう?

 大人は、痛みをじぶんの人生にとって良いように意味づけし、消化することができる。病気になったときは「健康のありがたみがわかる」と生活を改善するきっかけにできるし、息子の甘噛みが日に日に痛くなってきているのも、成長の証だと思えば快楽に変わる。けれど、こどもは何の痛みなのかもわからないまま、物語にしようがないまま、なんども耐えているのだ。

 人生には、すぐには意味づけできない、どうしようもない痛みも存在するのだと思う。ことばにしようとすると嘘になってしまうものが。そもそも痛みは、とても個人的なもので、誰にも共有できないもの。

 個に閉じられた痛みは、人を孤独に向かわせることもあるが、つながりというかたちに反転する可能性も秘めている。たとえば震災による被災者の苦しみは、体験していない人が、その痛みを理解することはできない。けれど、軽々しく理解できないからこそ、理不尽で物語なんかにできないからこそ、人と人が助け合い、人が強く結びつくポジティブな力になることがある。

 誰にもコミュニケーションすることができない痛みから生まれる、コミュニケーションやつながりもある。それは、ひとつの希望だと思う。

 ぼくは、こどもが痛がる声や表情を、じぶんの目と耳で受け止めることにした。理解できるものではないが、理解しようと努めること。こどもの横に、そんな大人が存在していたこと。その事実が、そこに生まれることのあるつながりが、ことばにならないコミュニケーションが、子と親にとって意味を持つこともあるのだと願う。

 どうやら痛みによって耐性がついたのは、こどもの免疫だけでなかった。親にとって家族のつながりを痛感する機会であり、こどものネガティブなことに向き合う耐性をつける時間でもあった。



©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
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