「初詣の願いごとで、じぶんが大事にしたいことがわかる」
あたらしい年を迎えるたび、昔の同僚が話していたことばを思い出す。
たしかに、限られた時間でお願いするから、願望の優先順位が明確になる。10代は受験や恋愛、20代は仕事、30代になると健康についてなど、なにに重きを置いているかのが変わってきているように思う。
2024年に年が替わり、1歳の息子といっしょに初詣へ向かう。鳥居をくぐり、拝殿の前に立ったとき、今年はどんな願いをするのだろうか。事前にはなにも決めず、その場で出てきたことを祈願することに。
人の行列に加わり、一歩ずつ神殿に近づいていき、いよいよじぶんたちの番がやってきた。お賽銭を入れ、鐘を鳴らし、二礼二拍手をする。胸の前で抱いていた息子が、大人の真似をしてパチパチと両手をたたく。微笑ましく思いながら目を閉じ、ものの10秒くらいの祈願は、家族で無事に生きられていることへ感謝しただけで終わってしまった。
その後、妻が厄払いを受けているあいだに改めて考えてみたが、具体的な願いごとがことばにしづらい。ふと「祈願」という文字に、「祈る」と「願う」という2つのことばが入っていることに目がいく。
よく似た言葉だが、「願う」はじぶんの思いを届けようとする能動的な行為で、「祈る」は自我を鎮めて彼方の声に耳をかたむけるような行為にぼくは感じる。
願うよりも祈ることに、いまのじぶんは重きを置きたかったのかもしれない。もちろん息子の幸せや家族の健康、世界の平穏は願っている。けれど、いま息子と妻と生きられている事実だけでも十分に奇跡のようなことで、これ以上なにかを請うのは、すこし欲ばりに思ってしまうじぶんもいる。
だから願いのことばで時間や身体を満たすよりも、願いを鎮めて感謝を伝え、(天もしくは内からの声を)聞くような行為に価値を感じたのだと腑に落ちた。せっかくなら今年は「聞く年」にしようと決める。
神社からの帰り道で、妻にどんな祈願をしたのか尋ねてみると「わたしは毎回いっしょ。むかし教えたことあるよ」と返される。あれ、いっさい覚えていない。まだまだ聞く姿勢が足りないようです。
©︎kengai-copywriter 銭谷 侑 / Yu Zeniya
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